フリーランスでグラフィックデザインとVJを生業にしているAK.といいます。
因にイニシャルではありませんw
縁あってこちらでブログを書かせて頂くことになりましたので、よろしくお願い致します。
前に違うブログでも書いたことがあるけど、始めの投稿だし改めて肝に銘じるってことで、
やっぱりこの内容(リエディットして)で。
とりあえず、以下の文はセオの引用なんだけど、
恐らく、この仕事を始めたばかりのころの僕にもこういう感覚があったような気がする。
前半は一言で言ってしまえば、“純粋なまでの自己満足”なのかな。
表現欲のみの純粋さというか。
今までの僕はというと、デザイナーとアーティストの境界線が曖昧な立ち位置での、
所謂“バランス”をとりながらの毎日だったりした。
だけど、最近はそういうことを、無意識に、意識せずに、制作出来ている気がする。
それがいいことなのかどうかは分からないけど…。
“14歳の頃の曲作りというものは非常に純粋だった。注目願望や金、さらには商品として公に出したいといった考えはまるで持ち合わせていなかった。唯一感じたものは、トラックを作り終え、その晩に、例えばベースメント・パーティでそれをプレイすることができるといったことに対する純粋な興奮だった。その場に居合わせた50人のキッズがそれを聴き、満足感を得られたとしたなら、目的は達成されたわけだ。それは非常に、地に足の着いた感覚だ。純粋に音楽に対する愛情に突き動かされていた。俺が凄く好きなのは、曲を作りはじめてから”何かを表現しないと”と思考を巡らせ、何とか音をかき集め、推敲しながら作っていくんだけど、その過程でパッと、その曲の完成形みたいなものがあたかもビジュアルなイメージとして思い浮かぶことがあるときなんだ。そういう時は、それをコントロールしようとするのではなく、それが俺に語りかけてくるのを待ち、それに耳を傾け自分を委ねるんだ。何かを創造するアーティストであるならばだれもが、それが100%正しいと思うことをしている時には、それが分かるものなんだよ。”
THEO PARRISH
via:ufsp
そんなセオと昨年、デカタンでサポートVJ(フライヤーも)として共演することが出来た。
そんな思い出。
